また写真なし

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一瞬・・・のこと



たとえば
ある家族がいたとして
みんなで朝ごはんを食べている

するとお父さんがすっと立ち上がり
上着に袖を通しながら
行ってくるぞ
とか言って玄関へ向かう

・・・行ってらっしゃ〜い
子どもたちの声が軽く響き
お母さんがせわしなくお父さんの背中を追う

見送ったお母さんが戻ってくると
早く食べて学校に行きなさい
なんて子どもたちをせき立てる


よくある家庭の日常
ありふれた朝の風景
次の日の朝も当たり前のように
同じような時間が訪れるはず

だから家族の会話も
食べた物の感想も
みんなが揃っていることへの関心も
特にないまま流してしまう

お父さんが放ったダジャレも
質問された学校のことも
思い出せないほどテキトーにやり過ごす

まさかその瞬間から二度と会えなくなるなんて
夢にも思わずに


37
歳にして
多くの観客と選手たちの見守る中で
突然のくも膜下出血に倒れた野球選手の訃報を聞いたとき
そんなことを考えてしまった

子どもたちは今なにをしているんだろう
お母さんはその子どもたちをどんな風に見守っているんだろう


スポーツ選手は一般人と比較にならないくらい
生活習慣に気を配っているはずだ
日々の食事、睡眠、体のメンテナンス、トレーニング・・・

でもほとんどの37歳は
酒、タバコ、運動不足、睡眠不足、偏食、尿酸、加齢臭・・・
あらゆる不摂生を日常的に行っている

何よりワタクシがそうだから


なのにこの世は一体どれだけのことを人間に課そうとしているのか
イヤでも不公平という言葉が口をついて出そうになる

もしお父さんのダジャレにクスリとも反応しなかったら
お父さんの質問が聞こえているのにシカトしてたら
行ってらっしゃ〜いの声も
顔を見ずに下を向いて言っていたら

悔やんでも悔やみきれないほどの後悔が残る
そんなこと百も承知なのに
何年生きても何度反省しても
同じことを繰り返す


ワレワレの毎日は
一瞬と一瞬の積み重ねでしかない

その瞬間の中にいくつものドラマの伏線があって
次の瞬間がなくなったものから
ドラマは途絶えていく

途絶えた時点で最後の一瞬は永遠になる
永遠にその瞬間で止まってしまう

存在することが当たり前と思っていたことが

次の瞬間にはなくなっていたり

 

そんなことがあり得ることも分かっている
分かっているのに
大切な一瞬一瞬をいとも簡単に流してしまうことがある


最近読んだ本の一節にこんなのがあった
「人は、自分に都合の良いこと、自分が信じたいと思うことほど、信じる。」



においに関する仕事をしていて
その道の権威にこんな話を聞いた
「人は、赤ん坊の頃は視覚が発達していないために、嗅覚が強く働く。
たとえば、赤ん坊の顔のヨコに、母親の胸パットと他人の胸パットをそれぞれ置いてみる。
すると赤ん坊は間違いなく自分の母親の胸パットの方へ顔を向ける。」と
それは視覚でも触覚でもなく
どうやら嗅覚によって大切な人を認知しているようだ

それが大人になるにつれ

だんだんと視覚に頼る傾向が強まり

気づいたら見えるものしか信じないことになったりする

気をつけたいものです

 

でも見えるものというのは

聴覚や嗅覚などをシャットダウンして

意外と視覚しか働かせずにただぼんやりと眺めていたりすることが多い

 

明日も訪れるであろう日常の風景はまさにそうで

ただなんとなく視覚だけで検知し

他に4つもある感覚をろくに働かせずに

単なる映像としてしか追っかけていなかったりする

 

家族といても仲間といても仕事相手といても

無意識にそうしてしまう瞬間があったりする

つーかそんなことの方が多いかもしれない

 

一瞬一瞬の積み重ねでしかない毎日に対して

五感をサボらせてしまうことが

 

なんでだろう?

 

いるはずの人がいなくなってしまう

あるはずの物がなくなってしまう

会えるはずの人と会えなくなってしまう

 

そんなことが起こるはずなのに

そんなことを考えたくないから

信じたくないことだから

ところどころ軽く流してしまうのか

五感をサボらせてしまうのだろうか

 

サボっているワケじゃなく

そうしないと体をこわしちゃうからだろうか

 

 

現実には

常に五感をピリピリさせて24時間を過ごすなんて

それこそ人間業じゃない

 

どうすればいいんだろう

 

仮に後悔を受け止めることができたとしても

何かが永遠に止まったドラマの続きは

現実は

受け止められるだろうか

 

最愛の、一家の大黒柱を亡くした悲しみは

同時に野球界の損失でもあり

友人や仲間たちの絶望を生み

ファンや無関係の人間にまで波紋となって

少なからぬ衝撃を与えているように思う

 

この文章がその証拠でもある

 

どんな現実より信じたくないこと

五感のすべてを閉ざしてしまいたくなること

 

そんなことさえ一瞬で訪れる

その先も色々な一瞬を重ねていくことになる

中には生きてて良かったという瞬間も必ずある

 

結論なんてワタクシには何もない

 

でも一瞬というのは

想像している以上に長く重く強く

記憶にのしかかることがある

後悔が大きいほど

 

そのことを頭と肝っ玉にたたき込んで

次にやってくる瞬間より一歩早く

思ったことを実行していく以外今は思いつかない

 

そして心よりご冥福をお祈りしたい

自分が生きている限りできるだけずっと

 

きっと家族に申し訳なく思っているだろう

きっと家族のことを誰より心配しているだろう

きっとこんな形で終わりたくはなかっただろう

せめて言い残したいことがきっとあっただろう

 

37

世間的にはオッサンと呼ばれるにふさわしい年齢かもしれないが

人生としはまだまだ若く青く本当の願いを叶える前の段階だ

 

忘れてしまうかもしれない

でもいつでも思い出せる自分でありたい

 

一瞬は一生すら左右するということを

 

・・・どこかでまた書くときがあるかもしれない

信じられないほど五感に衝撃が走ったときに

 

長くなってすまぬす

 

 

 



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コメント(2)

久々の書き込みです・・・。

巨人戦観戦に行って寝てしまうほど、
プロ野球には疎いのですが、
今回の一報は衝撃でした。

一番下の子供が葬儀の時、父親の「死」を理解できずに無邪気でいる姿がニュースで流れていて、何ともやるせない気持ちになりました。

37歳・・・。自分もそれほど遠くない年齢。
どう後悔せずに死ねるか。
考えさせられました。

ご冥福をお祈りします。

考えるべきは
自分に対してか
誰かに対してか

分からんけど
負けない人間にはなりたいもんだな

何が勝ちなのかは二の次としても
負けるのはイヤだな

負けるのと負けを認めるのとでは
ちょっと違う気がするから

ただ負けるだけはイヤだな

それも・・何に対してなんだかな

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このページは、redzが2010年4月11日 02:44に書いたブログ記事です。

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